☆デモクラティックな教育を選ぶということ
いいではないか!タイトルに見惚れてしまう。
「・・・という事」というのがいかにも“客観的に語れますよ”っぽくて実に良い。
けど語れない。なにせ私の娘はまだこの教育の中で育ち始めたばかりなのだ。
娘の生まれた助産院で初めて“お父さん”と呼ばれたときはつい後ろを振り返り、お父さんを探してしまい大恥を掻いたが、生まれたばかりのわが子をこの手に抱いたときの気持ちは実にシンプルなものだった。人事が及ばぬ何かの力をそう熱心に信じるタイプではない私でも、無事にわが子が生まれてきてくれた事を感謝するとともに、この子がこの先、望むままの人生を送って欲しいと思ったものだ。
しかし、しかし、親は欲深い。「這えば立て、立てば歩めの親心」どころでは済まない。ひらがなを覚えろ、野菜を食え、挨拶をしろ、歯を磨け、今から出かけるから付いて来い、もう帰るからついて来い、学校へ行け、「よくできました」を増やせ、上場企業に就職しろ、子どもを作れ、孫にも自分のように教育しろ・・。程度の差はあっても親は子どもに様々なことを要求し、良かれと思い価値観を押し付ける。
そして悩む。本を読んでは“よその子と比較してはいけない”と思いつつ、つい「?才ぐらいにはここまでの勉強を・・」みたいな言葉が気にもなる。“子どもの意見を尊重して”とテレビの中の偉い人に言われても、その通りにしてたら、毎週休みの日は遊園地に行って帰りにうどん屋(娘はうどんが好きだ)に通うことになる。“感謝”を忘れず、“望む人生”を送らせてやれる親でありたいとも思うけど100%という訳に到底ならない。
まあ、仕方がない、いいではないか人間だもの(少しパクリ)。まあ、結果として私と妻の印象が娘の中で「自分を最も大切にしてくれる暴君」となったとしても、出来る限りのことをしてやればいいのだと思う。これでいいのだ!(・・・)。
だからこそデモクラティックスクールとの出会いは貴重なものだ。どんな場所で、どんな人に囲まれて、どんなことをしたいかを彼女自身が決定できることは大切なことだと思うし、「親」でも「先生」でも「カウンセラー」でもない“暴君”のいない中で、年齢の違う子ども達と共に他者との関わりを経験することは、大きなチャンスだと私は思う。
娘が「まっくろくろすけ」に4歳で入学したのは、ちょっと他の子と事情が違う。
彼女の母がまっくろくろすけのスタッフなので、生まれた時から一緒に連れて行かれていた。みんなにかわいがってもらうので、本人はとても喜んでいた。3歳にもなると、他の子のように「まっくろくろすけのメンバーになりたい」と望むようになった。彼女は母についていっているだけなので、ミーティングで意見は聞いてもらえても決定には加われなかった。そのかわりまっくろくろすけのことに責任を持たなくてもよかった。掃除やごみ当番も加わらなくてもよかった。楽な面もたくさんあった。
それは、日本の社会における子どもと同じ立場かもしれない。大人と同じ住民なんだけど、大人のように投票権がない。でも無視されているわけではない。大人が勝手に子どもにもこんなんがいいだろうと考慮して、日本の社会を進めていくって感じ。
それで、娘は「自分の意見も他の子の意見と対等に扱われたい。」と4歳になるとまっくろくろすけに入学したがった。「権利をくれ?、俺にも決めさせろ?、義務も責任もになうから、まず対等な権利をよこせ!!」っていう、心の叫び??。
家には家のよさがある。だから、スクールでは家とは違ったよさがいい。家と同じような設定ではスクールに参加する意義がない。家では子どもは「尊重されているが、大人と完全に対等に民主的に物事を決める」というのではない。
身近な地域のことだって、大人は自治会を通して、物事を変えていけるけど、子どものことは勝手に大人が考えて決めてしまう。家ではもっともっと話も聞いてもらえるし、尊重されるけど、すべてのことに最終決定に対等に加われない。限界がある。大人には仕事の都合、地域の都合やあれこれ責任を担っていることがあって、家族で民主的に決められないこともいっぱいある。
だからこそ、民主的に物事を決め、進めていける体験をスクールですることはとても意味がある。大人になっていく過程でこういった経験を積んでいくことはすばらしい。自分には「自分の人生を自分でデザインしていく能力と責任がある。全体をよくしていくパワーと知恵と責任がある。自分と他人とは対等だ。その上で協力しあっていくことはステキなこと」と頭でなく、体にしみこんでいく。
それにどんなに仲良しの親子でも、子どもがうちと違った世界、親の入らない世界をもつことは子どもの成長にプラスだと思う。子どもは大きくなるにつれ、親とは違う自分の世界を自然にもちたくなってくる。うちの場合はその場所が“デモクラティックに子ども達が自治していっている所”となっている。
でも、親は大変である。
娘の口癖は「自分で決める?。うちの自由にする?。うちのことなのに勝手に決めるなぁ。」などなど。
先日もおじいちゃんと枝豆を食べていたときのことである。
おじいちゃんは「ほれほれ、豆が遠くまで飛んじゃってる。 こうしたらさやからうまく取れるぞ」と教えていた。
「いいの。いいの。自分のやり方でやってみるから」と娘。
もちろん、自分からアドバイスが欲しいときやもっと情報が知りたいときは聞いてくる。
「このビンどうやったら開くの?」「そこまでどののくらい時間かかるの?」などなど。
でも、「あくまで自分という車の運転者は自分」といった感じ。
自分が欲しくないときに、あれこれアドバイスや説明されたり、こうせいああせいと言われたりすると、
「自分のことは自分で決めるから、いいの。これはうちのこと。」と反撃をくらう。だから、何が余計な声掛けで、おせっかいかわかりやすい。
自分の成長に必要なことは自分から得ようと動いている。そして、今要らないことは断ることができている。
自分を育てる力が自分に十分にあるということが、損なわれていない。
反対にその力が損なわれてしまった人が大人でもけっこういる。仕事場でも“なんでも人に許可を求める人”が多い。自分で臨機応変に判断するってことが苦手な人が。そして、日が変わるとそのつど同じことを聞いてくる人などなど。
「これって、使ってもいいですか?」「これ、どうしたらいいでしょうか?」
丁寧といえば丁寧だが、今まであまりにも先生や親に許可を取らなければならなかったことが体に染み付いているのかも。
人に許可や同意してもらわないと不安なのか、自分で判断して責任をになうのがいやなのか、「それって自分で決めることだろ。それって前もOKしたじゃん、適当に自分で判断できんの?」って突っ込みたくなる。
ともかく既存の学校教育に自分自身も違和感を感じていたが、父親として正直デモクラティックスクールが子どもにどういいかとかそんなにまだわかってない。でも、娘の大好きな友だちでもあるまっくろくろすけの卒業生たちを見て、娘にもこんな人に育ってほしいなぁとほんとに思う。
それって、デモクラティックスクールとそこでで育つ子どもたちへの最高級のほめ言葉であり、かつ信頼でもあるんじゃないでしょうか。